●再会!
a)Hir.さん(神栖):
およそ40年前、当時、神学生であった私は、夏の間休暇で不在の宣教師の留守番に「神栖」に約一ヶ月の間滞在しました("行けども行けどもただ砂原"–畑…〜宿泊先はまさにこの地でしたが、「スーパータイヨー」と「セントラルホテル」の名前と、「大野原」といった地名以外は思い出せず、記憶とは全く違う風景でした)。
Hir.さん曰く、その頃、「一対一」での聖書の学びをしたとのことです。
私の記憶では、求道中のHat.さんの赤ちゃんが生後間もなく亡くなるという出来事が強烈すぎて−葬儀は鹿島で開拓伝道をはじめたS師にお願いしました−、そういえばそういう方がいましたね、というあいまいな記憶でした。
ところがこのHir.さんは、「先生から『あなたはここで何をしているのか』を聞きました」と言われ、それが今日のHir.さんへとつながっていることに驚きました。この言葉こそ、傷心のエリヤが聞いた神様の細き声(1K.19:9)であり、私への献身を促す御声だったのです。すごいです!
b)Naさん(鹿島):
礼拝後、Naさんから「20年前、先生は『暗夜行路』のお話をされませんでしたか?」と訊かれました。
「おひげの先生」という印象があったもののその時の「先生」が私だったかを確かめたいとのことでした。
その頃、「文学作品」を引用してよくメッセージをしていましたので、「そうだと思います」と答えました。
家に帰って確かめたところ、確かに1997年May 18, 鹿島にて「赦しを信じて生きる~“暗夜行路”と私の十字架~」(マタイ18:23~35)と題してメッセージをしていました。
約20年前のメッセージが今も生きているのです。驚き以上に、伝道者冥利に尽きる感動の一言でした。
折角なのでアウトラインを記しておきます(実は当時作業をしたegwordというソフトはもう使われていないので開けないとあきらめていたのですが、「偶然試した」OpenOffceという無料ソフトで読めたのです)。
【序】神の国とは徹底した「赦し」の世界である
【1】赦された「私」の現実
【2】赦せない「私」の現実
【3】神の「赦し」を信じて生きよ~暗夜行路を照らす光~
【結】神の国とは徹底した「赦し」の世界です。そのために十字架は存在するのです。キリストの十字架は、暗夜行路を行く私の光です。人生は決してきれいなものでも、美しいものでもないでしょう。しかしそれを美しいものにするのは、神の赦し、神の愛に生かされている「私」です。今日、神様の完全にして大きな「赦し」を信じて生きようではありませんか!
◎主よ、幸いな再会をお与え下さり感謝します。在主
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