愛する者や親しい人と死別した時、人は悲しみ、泣きます。
これは「自然な感情」です。
私たちは皆、罪の結果、死を避けることはできませんが、生きている限り、生かされている限り、
苦楽を共にし、ご飯を分け合いながら互いを思いやり、共に喜び合いながら歩みます(歩みたいと願います)。
ですから、その愛する者や親しい人の死を嘆き悲しむのは「自然な感情」です。
そんな時に、「信仰者なら泣くな、死を乗り越えよ」とは言いません。
いいえ、「信仰の父」が泣きました!
創世記 23:2
サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。
今頃になって、時折、悲しみとは違う寂しさが込み上げてきます。いや、これが悲しみなのかもしれません。
そんな時に、主キリストを思います。
主キリストは、いつでも私たちの悲しみを知る人として、私たちの痛みを受け止める人として、その死のただ中にある者と共に歩んで下さいます。「イエスは涙を流された」(ヨハネ 11:35)。
これが私たちの主キリスト、「永遠の同伴者」なのですね。
●昨年夏から今年初めにかけてたくさんの慰めの言葉やお花、カードをいただいたことを思い起こしながら。。。
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