*24日、礼拝と午後の講演会のご用をさせていただきました。すてきな教会堂-施設です。
リーベンゼラM.の宣教師たちが開拓して、今は、Af.宣教師の経験を持つH師が牧師(夫人は恩師の娘様)。教会の方がたを霊的によく整え、自主自立の信仰-奉仕者の姿が生き生きとしていました。例えば、私との連絡係をしてくださったA姉妹は私より少し若かったことにとても驚くほど熟練者なのです。よき出会いと交わりを感謝しながら帰宅しました。
礼拝においでの方の中に漱石の愛読者がおられ、嬉しかったですね。
それに、東戸塚から横須賀線の「新宿ライン」を使うと乗り換えなしで埼玉の新白岡まで行かれました。すごいですね。
ではシャローム!
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へのへのもへじ (火曜日, 18 8月 2020 12:46)
女性の什一献金はコロナ禍である現状は免れておりますが、
献金は厳しくなりつつあり、イソップ童話の北風と太陽を思い出します。
モーゼの十戒も1年以上続いており、神の御言葉として耐えて拝聴している次第です。
新たな求道者も一部の心無い女性信徒の嫌がらせで、コロナの名目で来なくなりました。
もう駄目かも、静かに去る準備をしてます。
神の旅人 (木曜日, 15 10月 2020 18:02)
○○様、
私の元に飛び込んで来た8月のコメントに驚きました!
2018年6月のブログ欄だったこと・・・
何かの間違いかと運営先に問い合わせもしました。
お名前が不明だったので削除しようと思いましたが、
書かれている内容が「深刻」でしたので、しばらくお祈りさせて頂きました。
「十戒」は大事ですね。最近、私は申命記から思い巡らしています。
唯一の神に仕え、従う上で、「道しるべ」の中心的な役割をもっています。
このとき、忘れてはならない点が、
主イエス・キリストが律法学者に問われてお応えになった内容です。言い換えれば、「十戒」は私たちキリスト信者には主の語られた内容を通して読むことが大事になります。
すなわち、
マルコの福音書12・28〜34(マタイ22章、ルカ10章)に「〜尽くして神を愛すること」、「隣人を自分自身のように愛すること」です。
このことはよくご存知だと思いますが、ローマ13・9はこう記しています。
「『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない』という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということばに要約されるからです。」
ここに「要約されます」とあります。つまりこの「戒め−教え」の精神です。
それは「山上の説教」、特にマタイ5・38~48 抜きに理解できない点だと改めて気づかされました。
キリストは<悪に対しては善をもって打ち勝て!>と、この「戒め」を生きる者たちの道にご自分のいのちをもって「新しい光を照らした」のです。→ローマ12章。
すなわち、「十戒−十のことば」が私たちに指し示す完成図が主イエス・キリストの十字架です。
十字架は愛と赦し−隣人愛−のメッセージそのものです。
今更ながら「隣人愛」が問われる昨今です。
▷私は自分に語りかけました。
今日、<あなた−自我>が十字架とともに打ち砕かれるなら、神の愛と赦しの幸いはあなたの内に満ち、そして祝福となって周りに流れ出すだろうと。
お便りをくださった方がこの返信コメントを読まれたでしょうか。
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一人で悩まず、ご一緒にお祈りをしましょう!